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笛吹川東沢

 笛吹川東沢は、高校生の時に田部重治氏の「笛吹川を遡る」という紀行文を読み、憧れを持ちました。そして大学生の時に初めて登り、それ以来10回近く通っています。最初の頃は、東沢を詰めて甲武信岳まで登ったのですが、息子達を連れて登った時には、両門の滝で引き返し、一昨年も両門の滝まで、そして今回はそれより手前の千畳のナメで引き返しました。

 魚止めの滝から美しい滑の滝が連続し、長い滑の廊下の千畳のナメまでがこの沢のハイライト部分です。千畳のナメから40分ほど登ったところに両門の滝があります。しかし、そこまでの間は比較的単調な景色になるのです。

 一昨年Mさんご夫妻と一緒に両門の滝まで行った時には、思ったよりも時間がかかりすぎ、沢から上がる前に夜になってしまいました。

 今回はご主人のMさんと二人で出かけました。時間的な余裕を持つために両門の滝まで行かず、千畳のナメまでとしたのです。

 余裕を持って行動でき、山の神まで戻って来た時にはまだ1時半頃でした。しかしそこからとんてもないハプニングが起きるとは予想もしていませんでした。

 東沢渓谷にかかる吊り橋へ行く手前に田部重治氏の文学碑があります。「見よ 笛吹川の渓谷は、狭り合って上流の方へ見上ぐるかぎりの峭壁をなし、其間に湛える流れの紺藍の色は、汲めども尽きぬ深い色をもって上へ上へと続いて居る。流れはいつまで斯の如き峭壁にさしはさまれているだろうか。」という「東沢を遡る」の一節が彫られています。(私の持っている本とは違う部分がありますが、碑に彫られている通りにしました)

 しかし、なんでこのような形の石なのでしょうか。自動車のように見えてしまいます。

 鶏冠谷の出会いから山の神までの道は、昔と変わっています。前は大きな岩が崩れ落ちている箇所から高巻きの道が始まっていたのです。台風などで道が崩壊し、付け変わっているのでしょう。一昨年は、このことに気づかず、鶏冠山への道に入ってしまい、途中で引き返すという時間のロスをしました。今回は、知っていたので、東沢をそのまま沢に沿ってしばらく行ったところから高巻きの道へ入りました。以前はなかった青い表示板もありました。

 田部重治氏の「笛吹川を遡る」にはホラの貝と呼ばれる場所のことも書かれています。この写真がその場所です。上流からの沢の水は、狭まった岩壁を穴のように削り、修験者が吹く法螺貝の口から水が入って、先から吐き出されるように滝になっているのです。

 その様子は、下からは深い淵に阻まれて見えません。冷たい水に使って泳いで行けば見えるのかもしれません。上からは、木につかまって覗きこむことはできますが、足場がとても悪くなっています。

 ホラの貝から上に登る道も、木の階段がつけられていた時もあったのですが、今は崩れた急な道になっていてロープを頼りに登り降りするような感じです。

 山の神まではホラの貝の箇所以外は、沢に降りることなく高巻きの道があったのですが、今は何箇所か高巻きの道が崩れていて、沢に一旦降りて登り返すようになっています。一昨年よりもその箇所は増えていました。

 山の神です。ここからは沢歩きになります。山の神からの先の沢の景色は、私が大学生の頃と大きな変わりはありません。

 山の神から先「乙女の滝」「東のナメ」「西のナメ」という見事な滝を右岸、左岸に眺めながら、幾度も渡渉して行きます。私は昔ながらの地下足袋とワラジという足拵えで、M氏は沢歩きに向いているような運動靴です。M氏の靴は意外と滑らないようです。

 私のワラジは、作りがかなりいい加減で、藁の捻も弱いものだったらしく、すぐに底が崩れて来ていたのです。それに気づかず、一昨年Mさんの奥さんが滑って落ちた、滑の淵に差し掛かりました。Mさんはスタスタと運動靴で淵の斜面を歩いて行きました。私も一昨年と同様スタスタと歩き始めたのですが、途中で、足が止まってしまいました。なぜか足が滑る感じなのです。止まると、足が全く動かせません。少しでも動かすと斜面を滑り落ちそうでした。

 仕方なく、私のザックに入っていたザイルを取り出し、M氏に足場のしっかりしたところでザイルの端を持ってもらい、ザイルを頼りに一気に渡り終えました。私は自分のバランス感覚が衰えているのかとショックでした。

 東沢を甲武信岳へ突き上げている釜の沢へ入るところには、大岩に赤いペンキで釜の沢と書かれています。そこを右に入っていくと、すぐにこの魚止めの滝が現れます。

 ナメの滝なので、直登はできません。足場を刻んだ大きな丸太が左にかかっていたこともあるのですが、今回はそうしたものはありません。ザイルの先にストックを結びつけ、立木をぐるっと回るように投げ縄の要領で投げ、ザイルを通しました。ザイルを頼りに登り、左手の林の中に入り、滝の落ち口に出ました。

 この写真は、帰りに撮影したものです。魚止の滝の落ち口部分です。

 ここで足を滑らすと、魚止めの滝を滑って落下しますから、慎重になりますが、とても美しい場所です。

 ここから右へ続くナメの滝の脇を登り、左へ曲がると千畳のナメです。

 これも帰りに撮影したものです。魚止の滝を上がって落ち口に出た先はこのように右に回り込むようにナメの滝があります。

 私は、この写真で言うと左手の林の中からロープが垂れているので、それを使って林の中に上がり、それからこの場所へ立ちました。

 Mさんは、滝のすぐ脇を歩いて行きました。私も昔はそのように歩いた覚えがあります。

 Mさんは快調にナメの滝に沿って登って行きました。しかし、「アッ」と声を出し足を滑らせて尻餅をつき、そのまま登ってきたナメの滝を滑って行きました。5mほど滑っただけで、少し深さのある淵までは入らずにすみました。しかし「怖かった」と言っていました。

 これがMさんが足を滑らせ、、もし途中で止まらなかったら入ったであろう淵です。とても水が綺麗で、泳いてみたくなる感じです。しかし、水は冷たいです。

 これも帰りに撮影したもので、これが千畳のナメです。奥に三段の滝があります。私は三段の滝の高巻きで失敗し、足を滑らせて滝壺に落ちたことがあります。それほど大きな滝壺ではないのですが、それでも足は立ちませんでした。

 千畳のナメの最上部、三段の滝の前が今回のゴールです。着いたのは10時半ですが、ここで昼食にしました。家内が作ってくれたおにぎりを食べ、その後、岩の上で寝そべるととても良い気分でした。

 お昼前に帰り始めました。降って行くと。東のナメと乙女の滝の間にこのような岩壁があります。実は、私はここを油絵で描いてみたいと思っていました。昨年の秋、ここまで来て水彩を描いています。今回も絵の道具を持って来ていましたが、時間がかかりそうだったので、写真を撮るだけにしました。写真では伝わらない迫力があるのです。100号ぐらいの油絵にすれば伝わるだろうか?そう思います。

 山の神まで戻って来たのは1時半頃です。東沢から上がるまで後1時間はかからないでしょう。

そう思っていました。

 しかし、この後、とんでもないことが起きました。

 後ろから来ていると思ったMさんがついて来ないのです。

 しばらく待ちましたが、来ないので、確実に一緒だった山の神の近くまで戻りました。しかし居ません。

 もしかしたら、どこをどうやってすれ違ったのかわかりませんが、先へ行ったのかもしれないと思いました。ホラの貝まで行きましたが、居ません。先に行ったとしたら、途中で待っているはずです。私はまた引き返し、山の神までの間を行ったり来たりしました。高巻きの道の下の方も見ました。高巻きの道は崩れやすい道なので、滑落している恐れもあったのです。しかし、道には滑落したような痕跡はありません。1時間以上そうやって探していましたが、これで駐車場まで戻っていなかったら捜索隊を出さなければならないと思いました。本当に、滑落して、上から見えないところまで落ちているとしたら、自分だけではどうにもならないことでした。

 念のために、また山の神まで引き返し、山の神には「どうかMさんとまた会わせてください」とお願いしました。そして、途中の道の様子に気を配りながら下山して行きました。

 吊り橋を渡り、スマホが圏外ではなくなったときに、着信がありました。

Mさんからです。

 心底、私はホッとしました。

 Mさんは、やはり先へ行っていたのです。どこで先行したのかわかりませんが、2箇所ほどそうした可能性のある場所があります。

 Mさんはいくら待っても私が来ないから、てっきり滑落したものと思ったようです。Mさんも道を戻ったようですが、おそらくその時には私は河原にいたのでしょう。会えなかったのです。

 Mさんも私が滑落したなら、助けを呼ばなければいけないと思ったようです。そこで急いで東沢山荘の方へ向かったようです。

 Mさんとスマホが繋がった時、Mさんは110番した後でした。私が無事なことを知り、すぐに警察には電話を入れたようですが、パトカーが確認のために向かっているようでした。

 私たちは、心配してくださった東沢山荘の方やご足労をかけてしまった警察の方々に謝りました。警察の方は、私が無事だったのと、もう一件、未解決のものがこの場所であるらしく、私たちの方は簡単な調書を取るだけで終わりました。

 もう一度、山荘の方々や警察の方に謝り、家路に着きました。

 勝沼へ向かう途中、何台もパトカーが上がって来ましたから、もう一件の方が大変なようでした。

 

 やはり、相手の姿が見えて声が届く距離以上離れてはいけないと思いました。

 それに、沢の中では川の音にかき消されてしまい、声は届かないものだと知りました。

 お互い無事で本当に良かったです。