丸川荘に泊まる

 丸川荘は、大菩薩嶺から北西へ降った丸川峠にある小さな山小屋である。私が丸川荘に興味を持ったのは、中村好至恵さんが、丸川荘の女子トイレに壁画を描いたという話を日野春アルプ美術館館長の鈴木さんから聞いたことからである。中村好至恵さんは、素敵な山の絵の水彩を描いている人で、雑誌『山の本』にも連載されているので、ご存知の方もいらっしゃるかと思うが、私とは武蔵野美術大学の同級生である。

 丸川荘については、高桑信一さんの本にも紹介されており、ランプの山小屋ということで興味を持ち、一度行ってみたいと思っていたのである。

 最近は、快適な山小屋が増えてきているが、私が学生の頃頻繁に訪れた川苔山の獅子口小屋のような、古くても静かで落ち着ける山小屋はないかとずっと思っていたのである。

 日野春アルプ美術館での作品展が終わり、やっと山へ行けるという思いになった。作品展の期間中は山を目の前にしながら、作品展に来てくれた方々の方が大切なのでなかなか山へは行けなかったのである。

 作品展は終わったが、もう一度アルプ美術館へ行く用事が出来たので、ついでに登れる山を探した時、いくつかの候補の中から、まずは丸川峠というプランとなった。

 丸川峠へは、裂石から直接、あるいは柳沢峠から尾根道を行くことも考えたが、大菩薩峠にまだ行ったことがなかったので、大菩薩峠、大菩薩嶺経由で丸川峠へ行くことにした。

 10月21日(金)はたまたま仕事が休みとなったので、この日に行くことにした。

 大菩薩峠は、上日川峠まで車が入れるが、丸川峠からの下山を考えて丸川峠入口の駐車場に車を停め、そこから登山道へ入ることにした。駐車場には私の車だけであった。

 

  約1時間半ほど登山道を歩き、峠手前で車道に出て上日川峠に着いた。午前10時頃であったが、平日だというのに駐車場は一杯であった。ふくちゃん荘の前を通り、穏やかな日差しの中、歩きやすい道を大菩薩峠へと向かった。

 

 

 介山荘の土産物屋の中を通り抜けるような感じで、大菩薩峠へと出たが、平日なのになんでこんなに人が多いのだろうという感じであった。若い女性が多かった。

 

 大菩薩峠でスケッチをする予定でいたが、落ち着いてスケッチできる雰囲気では無く、それに、ありきたりの構図になってしまいそうで制作意欲が湧かなかった。もう少し先へ行ってみることにした。

 結局、賽の河原をすぎ、大菩薩嶺へ登る途中の岩場まで来たら、人は少なくなり、景色も良かったので、岩の上に腰を下ろしスケッチブックを広げた。

 最初は順調に描けていたのだが、手前の草原と奥の熊沢山をどのように描こうか迷い、だんだん手数が細かくなっていってしまい、1時間近くたって、色は濁るし、筆のタッチはにぶくなる状態に陥ってしまい、これ以上描いてもだめだと筆を置いた。

 この先は、早く丸川峠へ行き、そこで絵を描こうと先を急ぐことにした。

 大菩薩嶺を13:45に通り過ぎ、丸川峠には14:56に到着した。

 丸川峠は大菩薩嶺からのコメツガなどの樹林帯の道を降ってくると、明るい草原が穏やかな輝きで広がり心地よいところである。丸川荘は、その草原に建つ青いトタンの屋根と壁に覆われた小さな山小屋である。

 着いた時には日差しがあり、明るい峠の感じであったが、すぐに曇ってきてしまった。そうなると急に寒くなってきたので小屋に入ることにした。

 「こんにちわ」と声をかけて入口の引き戸を開けて入ると狭い通路をはさんで、正面はガラス窓ごしに小さな厨房が見えた。左には小部屋があるようだが、「どうぞ」と声がした右手に行くとすぐ薪ストーブがある小部屋が広がり、そこに小屋主の只木さんが立って私を待っていらした。

 小綺麗な山小屋が増えてきているなか、丸川荘は年季の入った昔ながらの山小屋であるが、小屋のご主人も小屋と同じように年季の入った方にお見受けした。

 ストーブのあるその部屋は、食堂にもなるのだろう、広い長テーブルがあって壁際の座席とテーブルをはさんで長椅子があった。私はその長椅子に腰掛け、宿泊の手続きを行い、只木さんとの会話を続けていった。外は曇っていて、もう絵を描く気にはならなかった。

 小屋主の只木貞吉さんは、宮城県出身で東京へ働きに出てきていたが、1980年に先代に代わって小屋に入ったとのことだった。山小屋は東京オリンピックの頃にできたと言うから、建ってから50年程になる。最初は、山小屋にずっと住んでいたが、麓の裂石に家を建て、泊まり客がいる時や土日には山小屋へ来ているそうである。

 麓の裂石までは、小屋から1時間半ほどだが、2年前の大雪の時は、軒まで雪が積もり、麓まで8時間もかかったとのことだった。

 裂石では、組長の役割も輪番で回ってくるので、務めなければならないとのこと。土日は山小屋で客商売をしているので、仕事を免除してもらっているが、葬式だけは、山小屋を閉めてでも参加しなければならないのだとおっしゃっていた。山小屋だけでなく地元に受け入れてもらうためにはそれなりの努力が必要なのだった。

 小屋の中を見回すと、部屋の奥の右側にショーケースがあって木彫りの作品がたくさん飾られているのが目に入る。仏像が多いが、天女の像は先代の小屋主が彫ったものとのことであった。手前にバターナイフやスプーンなどの食器があるが、それは只木さんの作品であった。ふと目の前を見ると、母屋から外へ突き出たように約一畳半ぐらいの小部屋が見え、そこは木彫の作業部屋になっているようだった。 窓際に数種類の大きな彫刻刀が置いてあり、その隣に制作途中なのだろうか木彫りのマグカップが置いてあった。マグカップは注文を受けて作っているようだった。


 話はトイレの話になった。そもそも私が丸川荘に興味を持つきっかけは中村さんの描いた女子トイレの壁画であった。トイレの話になると、只木さんは「匂いがしないでしょう」とおっしゃった。たしかに小屋のすぐ脇にトイレがあるにもかかわらず、匂いがただよってこなかった。

  大便は固形だとそれほどの量ではないのだとのこと。なにやら工夫があるようだった。「(女子トイレも)どうぞ見てきてください」と言われたので遠慮なく拝見させてもらうことにした。なにしろ今日、小屋にいるのは私と只木さんだけなのだから。

 トイレの外観は、古びた暗い感じの小屋なのだが、女子トイレの中は、四面とも中村さんの壁画があり、只木さんの作った明かりとりの丸い半球がはまった窓があって中は明るかった。 トイレの匂いがあまりしないのは、小と大をわけて集めるようにしているので、大の方は乾燥して匂いが少なくなるのだそうだ。

 小屋に戻ると、食堂の石油ランプの火が灯っていた。丸川荘の石油ランプは芯の太いものを使用しているとのことで、とても明るかった。大部屋の方は、LEDランプだったが、それは、お客さんが勝手に芯を調節するとホヤが割れたり、すすがたくさん出たりするので、そうしているとのことだった。石油ランプは最初、芯をあまり出さず、ガラスのホヤが温まってきてから芯を伸ばして明るくするのだそうだ。

 それに、電気がついていないと眠れないという人もいるらしく、ずっと点けていても良いLEDランプにしてあるとのことだった。

 5時頃、少々早いがインスタント焼きそばの夕食を作って食べた。

 今回、水はたくさん持ってきていたので、小屋から水はもらわなかったが、宿泊者は水を頂けることになっている。

 水はどのようにしているのか聞くと、今の時期までは、湧き水が出るのだそうだ。寒くなると水のパイプが凍ってしまって使えなくなるとのことだった。そうなったらどうするのかは聞かなかった。その時期には泊まり客もごく限られた人たちになるのだろう。

 

 食事が終わった頃は、外も暗くなり、ランプの灯が良い感じであったので、それを描くことにした。2枚描いたが、ランプを点景にして部屋の感じを描いたもののほうが小屋の雰囲気を描けたようだ。

 2枚描いてから、トイレにいくためにヘッドランプを点けて外へ出た。すると、、暗闇の中に、光る点が2つあった。私はキツネだと思い、小屋に戻って「キツネがいるようですよ」と只木さんに言った。

 只木さんの話の中に、大菩薩には2匹の兄妹のキツネが居て、丸川峠にも姿を表すということを聞いていたからである。

 只木さんが出てきて「キツネではなく鹿だ」とおっしゃった。よく見ると、光る目はいくつもある。只木さんが懐中電灯で照らすと親子の鹿の姿が浮かび上がった。只木さんは懐中電灯で鹿を照らしながら、怒鳴って追いやるようにした。それでもなかなか鹿は立ち去らない。小屋の周りには、網で囲んだ場所があり、ヤナギランなどの植物を守っているとのこと。鹿が増えて食害が広がっていることは知っていたが、人が追ってもあまり逃げないほど鹿がのさばっているとは思わなかった。

 

 小屋に戻り、大部屋に入り、用意されていた布団を敷いた。大部屋は冬季はこたつを用意するとのことだが、まだ用意はされていなかった。しかし、寒かったので布団にくるまったらそのまま寝てしまった。

 早朝に目が覚めたが、しばらくは布団にくるまっていて、6時少し前に起きた。外はすっきりと晴れてはいなかったが、富士山が見えていた。晴れてきそうであった。広間でコーヒーを沸かし、ワッフルを食べるという簡単な食事をした。只木さんも起きて広間に出てこられた。今日は山を降りることなく、そのままずっと小屋にいるとのことだった。そこで私はすぐには出発せず、小屋の風景を外から描くことにした。1時間以上かかって丸川荘の絵を描いた。この絵は、大菩薩峠で描いた絵よりは雰囲気をとらえることができた。

 朝、小屋を出発したのは9時少し前であった。小屋を出る前に只木さんに「写真を撮っても良いですか」と聞くと「カメラが壊れますよ」と言われたが、すかさず私はスマホのカメラのシャターを押した。

 出発する時には、出口まで見送ってくれ、私は「また来よう」という思いを持って山を降りた。

 最初は急坂が続き、石の多い登山道であった。只木さんが、「春先は石が緩むので、危ない石はだいぶ落とした」とおっしゃっていたが、そうしたことで登山道の安全は守られているのだと思った。しかし、この急坂や谷筋の道を大雪の時に降るのはさぞ大変だったろうと思った。1時間10分ほどで丸川峠入口の駐車場へ辿りついた。来た時は、私の車だけだったが、結構車が停まっており、そういえば今日は土曜日だと思った。

 丸川荘を出る時にもらった大菩薩の湯の割引チケットを使い、開いたばかりの温泉に入り、山梨県へ来た目的である日野春アルプ美術館へと向かった。

 今度は柳沢峠から入り丸川荘へ行こうと思った。

                                       2016年秋 記載